ROD OF IRON KINGDOM 鉄のつえの王国(3)

第7章 彼(キリスト)は鉄のつえで彼らを支配しなければならない



イエスの福音は王国の福音である


「良い知らせ」は、伝統的にイエス・キリストの十字架、死と復活のみとして説明されてきた。しかし、イエスは良い知らせについて何と言っているか? キリストの言葉をじっくりと見ると、福音は王国の福音であることが分かる。マタイによる福音書の中だけで、キリストは彼の周りに集まる群衆に対し、40回以上にわたって、来るべき王国のメッセージを説いている。


対照的に、彼は弟子たち、内部に対して、個人的に3回だけ、彼の差し迫った十字架のことを話している。


新約聖書の至るところで、イエスの説教は、神が主権を有する統治のメッセージを中心にしている。


この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
(マタイによる福音書 第4章17節)


イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
(マタイによる福音書 第4章23節)


行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。(マタイによる福音書 第10章7節)


そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
(マタイによる福音書 第24章14節)


そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
(マタイによる福音書 第25章34節)


ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
(マルコによる福音書 第1章14節)


マタイによる福音書 第6章33節では、イエスは、私たちが何かをする前に、明日を心配する前に、まず神の王国を求める必要があることを明らかにしている。イエスは「まず始めに、民主主義を求めなさい」とは言わなかったし、「まず、共産主義を求めなさい」とは言わなかった。また、彼は「まず、価値の無い卒業証書を求めなさい」と言わなかった。彼はこう言った。あなたがたは、まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。


マタイによる福音書 第9章35節では、イエスはすべての町や村を回り、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で教え、王国の福音を説き、人々の中のすべての病気を癒した。


ルカによる福音書 第4章43節で、イエスは人々に「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。十字架の福音や死の福音、あるいは、3日目の復活の福音を説くために遣わされたとは語られなかった。それどころか、イエスは神の王国を説く目的で送られたと語ったのである。


イエスはまた、彼の王国が精神的であることと同じくらい肉体的であることも明らかにした。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 第6章9~10節)それは、ただ単に、私たちが死んだ後でのみ、入る天上の王国ではない。キリストの王国は、キリストがこの地上に導かれる正義と善良さの王国になるだろう。



鉄のつえ


私たちは終末の時代に生きているので、王国の約束は今、成就されようとしている。多くの人々が聖霊から啓示と霊感を受けている。イエスは新しい名前を持って来られて(参照:ヨハネの黙示録 第3章12節)、そして、彼は、善良なる人々がキリストと共に、鉄のつえで支配する治世を確立するだろう。


わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう」と。(詩篇 第2篇8~9)


彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
(ヨハネの黙示録 第2章27節)


女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。
(ヨハネの黙示録 第12章5節)


その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
(ヨハネの黙示録 第19章15節)



キリストが再臨する時、彼は統治者となって、そのみ言で国々を審判するだろう。


ヨハネが黙示録を書いたとき、剣は戦争の一般的な武器であった。それは主権者が権力の地位を維持する手段であり、それは彼らの君主制に対するサタン的な支配を確かなものにした。神の王国が地上に来るためには、キリストを中心とする信心深い人々が、悪の勢力よりも強い「火力」を行使できなければならない。(参照:ヨハネの黙示録 第20章)新約聖書の最後の本の聖句には、鉄のつえを重要な着装品として描いており、これは、キリストが再臨したときに、どのように統治するかを示す重要な物理的アイテムである。彼の王国は、鉄のつえの正しい使用によって安全に保たれ、維持される。ヨハネの黙示録第20章では、キリストは「海の砂のようにたくさんの」邪悪な者に対して、火の力(または「火力」)を使い、罰のためにサタンを火の湖に投げ入れた。


しかし、現代の人々にとって、キリストを武器と関連付けることは、しばしば困難である。 2つの存在は相互に排他的に見えるかも知れない。さらに、人々はその致死力のために、必然的に銃器を恐れている。死を引き起こす物に対しては、決まりきった、反射的な反応を引き起こす傾向があり、結果として、一般市民は銃を所有するべきではないという信念をもたらすことが多い。「平和主義者」信者は、神だけが生と死に対する力を支配していると主張するかも知れない。しかし、その主張には疑問がある。目に見えない神はどうやって武器を制御できるのか?それは実生活でどのように機能するのか?


信心深い人々が自分自身を守る力に欠けているとき、悪が暴れ狂うという例を探すのに、あまり遠くを見る必要はない。たとえば、中央政府は過去100年間で2億2千万人以上の非武装の一般市人を殺害し、その多くは神への信仰のために殺された。


正統派キリスト教作家で、ロシアの反体制派のアレクサンドル・ソルジェニーツィンは、ヨセフ・スターリンが創設したグラグ労働収容所の囚人として8年間を費やし、中央政府によって生み出された惨めさを直接経験した人物であった。ソルジェニーツィンは、ロシアの文学の巨人で、共産主義によって引き起こされた6000万人のロシア人の死の主な理由を説明すると、簡単に述べた:「人は神を忘れてしまった。それで、すべてが起こったのだ。」



クリスチャンはより高い権威を認めている


キリスト教徒として、私たちはサタンは国家の力を使い、神の子供たちを支配し、奴隷化し、殺害してきたことを理解している。キリスト教は、特に、キリスト教は個人の価値を高めるので、国家のアイデンティティへの脅威として認識されている。それは人々の間に絆を生み出し、連帯を促進し、困っている人々を助ける。政府は、キリスト教が社会的な反抗勢力が力を得ることができる情報などの伝達経路になることを、当然のことながら恐れている。


イエスの生涯と教訓を研究するとき、聖書は国家の忠誠に相反する教えを示している。イエスは生涯において、政治的な役職を持っていなかったが、それでも、彼はローマ帝国にとって潜在的に危険であると考えられていた。ヘロデ大王は、「救い主」の誕生時に、すべての若い男性の子供たちを虐殺することを命じたとき、「ユダヤ人の王」としてのイエスの立場の正当性を、無意識のうちに確認していたのである。最初の3つの福音書で、キリストは繰り返し、神の差し迫った君主制の支配ついて話した。イエスが神の化身であり、ユダヤ人の王であるという主張は、彼がユダヤ人とローマ人の両方の階層から受けた敵対的な反応の重要な要因であった。


イエスは、イエスのみがユダヤ人たちの忠誠に値する主権者であるという宣言によって、ユダヤ人の支配エリートに衝撃を与え、怒らせた真の革命家であった。イエスに従うことは、ユダヤ人たちがローマの指導者よりも、反逆者のラビに敬意を表さなければならないことを意味した。忠誠心における、このシフトは、ユダヤ人指導者を不安定で、生命を脅かす状況に置いていたことであろう。ローマは氾濫の可能性を迅速かつ断固として対処した。奴隷や反政府勢力に対処する際、国家は通常の慣行として、拷問と磔刑を採用することを躊躇しなかった。大勢の人々を動員することができた、奇跡を起こすカリスマ的なユダヤ人の預言者は、現状に対する脅威として、容易に認識された。



イエスは力の行使を拒絶しなかった


イエスが平和主義者であったと言うことは正確ではない。彼は、神殿にいた貪欲で、自分勝手な両替商を攻撃し、追い払うために鞭を作ったとき、彼は彼自身の力を増加させる武器を製造した。ルカによる福音書 第22章36節で、イエスが弟子たちに言ったとき、軍レベルの防衛兵器の権利を肯定した。


そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。


イエスは、マタイによる福音書第18章6節で、次のように言われたとき、死刑に対する支持を示唆された。


しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 


真実は、イエスが王国の福音でユダヤ人とローマの指導者に脅威を与えたということである。それは彼らの中央政権を転覆するメッセージだったので、彼らはますます怒り、彼のメッセージによって脅かされたのである。


再臨のこの時代に、イエスが戻って来られるとき、私たちはどんな種類の支配者を期待できるのか?一部のクリスチャンは、神の独裁政権に服従する時代に、神の国が到来するかどうか疑問に思っている。一部の人々は、キリストの統治は明らかに圧制的であり、すべての人々を神の絶対的な意志で支配する、王の王が統治する場所であると推測している。おそらく、一部のクリスチャンは、ひそかに、全体主義的な支配の一つであると推測される、神の国ではなく、自由なアメリカに住むほうがよいと個人的に考えている。



自分の命の危険を顧みない羊飼い


しかし、ヨハネの黙示録の「支配」に使われているギリシャ語を調べると、聖書はキリストが戻って来たとき、以前と同じ性格を持つことを示している。第2章で述べたように、ギリシャ語のポイマイノは、黙示録の鉄のつえの聖句にあるキリストの支配を指す言葉である。鉄のつえの支配は、ポイマイノの支配である。ポイマイノとは文字通り、独裁者ではなく羊飼いとして行動することを意味する。羊飼いは世話をして、群れで移動させ、保護して、そして、指導する。良い羊飼いは羊を怖がらせたくない。彼は、害や危険から羊たちを守るために鉄のつえを使うのである。「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」(詩篇 第23篇)


ポイマイノの支配は、正しくて慈悲深い神を中心とした思いやりのある支配である。彼の群れを知っている、王の王である王国の良き羊飼いなのである。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(ヘブル人への手紙 第13章8節)、と聖書にあるように。神は、悪の力が彼らを破壊できないように、神の子供たちが強くなることを願う、守ってくれる父なのである。




邪悪を克服するためには、正義を守ること不屈で、確固たる、善良で道徳的な人々が現れなければならない。鉄のつえだけが、キリストに従う者たちに、暴君に対して「ノー」と言う能力を与える。中央政府、貴族、そして「法の上」のエリートの最高階級によって、人々が苦められ、支配され、何度も「税が形成された」無限のサイクルがあった。


しかし、過去の君主制とは異なり、神の王国は逆さまの王国である。それは根本的に異なっている。神の王国では、かつて、「こころの貧しい人たち」、奴隷、農奴であった人々は、彼と共に共同統治者になるために、キリストの王国の権威と権力を継承する。(参照:マタイによる福音書 第5章)。キリストは全体主義者として支配するつもりはなかったし、彼がトップとして君臨している間、私たちは王国の共同相続人であるべきである。


あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
(ローマ人への手紙 第8章15~17節)


イエスの苦しみと栄光を分かち合うということは、わたしたちが「キリストを着る」人生を過ごすことを意味し(参照:ローマ人への手紙 第13章14節)、堅実さと正義と同様に、愛と慈悲をもって、大きな力を行使できると信頼される人々になるということである。


参上の垂訓では、イエスは単に個々の信者を教えるだけではなく、彼はまた、来るべき王国の継承者の文化についての人間性を教育していたのである。



こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。


悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。


柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。


義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。


あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。


心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。


平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。


義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。


わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。


喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


(マタイによる福音書 第5章3節~12節)


時代を超越した知恵をもって、イエスは主権者であり、武装した人々の王国に、必要とされる特質を教えていた。謙虚さ、思いやり、慈悲、純粋さ、義、これらは王国の美徳である。そして、天の王国は、キリスト教の枠組みの中で鉄のつえを活用する。鉄のつえは、道徳的なキリストを熱望する市民によって、王国を適切に維持するためにのみ、使用することができる。チャールズ・キャロルのような創設者の父は,この点を理解していた。


道徳がなければ、共和国はいくばくも存続することはできない。それゆえ、キリスト教という、その道徳性が非常に崇高で純粋な、宗教を公然と非難している人々は、自由な政府の最高の安全保障である、道徳の強固な基盤を蝕んでいるのでる。


キリストの主権を分かち合う神の王国の市民は、自分自身の鉄のつえで自分達の家族、隣人、そして、国家を守る責任を負う。


鉄のつえを持っている人々は、かれらが個人的レベルと国家レベルの両方で、これらの王国の価値を体現できるように、身体的トレーニングと同じように、精神的トレーニングとを受けるように召集される。それは、道徳的な共和国が維持され得るには、この方法しかないからである。武装した防御者として繁栄する私たちの能力は、唯一の福音の完全な体現者である、キリストに本質的に依存した、継続する訓練と学習に左右される。


鉄のつえは、王国の市民が力を通して平和を維持することを可能にする。キリストの共同相続人は、自制心と「怒りをおそくする」ことを通じて、強さを維持しながら、王国を保護する者になる。武器を所有する人は、高いレベルの規律と警戒を維持しなければならない。市民が鉄のつえを所有する時、とてつもない力を持つことになるので、自分自身を主管する方法を学ぶことが不可欠となる。一度、弾丸が発射されると、絶対に元には戻らない。


責任のあるすべての親は、自分たち自身の命の危険を冒してでも、自分達の子供を保護するという本能を持っている。神の王国は、私たちが隣人の「守護者」であるという文化を表すのである。鉄のつえは、より身長の低い人、年齢の高い人、あるいは、障害を持つ人にとって、自分たちの威厳のある主権を維持するための最も効果的な方法である。鉄のつえの文化の基本原則は、神を愛すること、そして、隣人を愛することである。


武装した市民は、悪人、暴君、サタンの勢力によって駆り立てられた人々に「NO!」と言う能力を持っている。武装した市民だけが「NO!私を支配したり、殺したり、コントロールしたり、奴隷にしたり、レイプしたり、私や私の隣人に悪を仕掛けたりすることはできない。あなたが私に破壊的な力を行使しようとするなら、私は、私の愛する人々、または私の王国を守るために、致命的な力でもって対応するだろう。」


神の家族の一部として、そしてキリストの主権を分かち合いながら、神の王国の市民は、誇りをもって王冠を身に着けている。私たちの忠誠はキリストの神に対するものであり、国家の神に対するものではない。それで、イエスはこう言われたのである。「あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。」(ヨハネの黙示録 第3章11節)


私たちの王冠をかぶることで、私たちはすべての神を否定する暴君に反対し、神の王国の市民として立ちあがる。


18世紀のアメリカの反逆者の精神には、入植者たちがただ一人の君主に仕えたという感情が吹き込まれていた。英国に任命された知事が述べていたように。


もし、アメリカ人に、あなたの主人は誰ですか、と聞けば、彼は、誰でもない、いかなる知事でもない、ただイエス・キリストのみである、と答えるであろう。


同様に、英国のピトケアン少佐がミニッツマンの集められた連隊に叫んだとき:「解散しなさい。お前ら、悪党どもよ。英国のジョージ王の名において、武器を下ろせ」それに対して、ジョナス・クラーク牧師は答えた。


私たちは神以外の主権を、イエス以外の王を認めない!


アメリカが、その神聖なルーツから逸脱していることは深刻であるが、神はこの特別な国を手放してはいない。アメリカ革命は、アメリカ人がまだ武器を所有する権利を持つという、高貴な価値観を中心にしているからである。私たちが何かを使う場合、その目的は、神か、あるいはサタンが権力を持っているかどうかによって決まる。武器は力であり、または力を増幅させるものである。脅威として、容易に認識された。私たちが、圧制からの解放や自由の保護等のように、儀にかなった目的のために銃を使うならば、神がその銃に対する権威を有するのである。


キリストが、詩篇第2篇8にあるように、私たちに地の果てまでも所有を与える理由は、私たちが利己主義者になれるようにではなく、私たちがキリストに代わって、管理責任を遂行できるようにするためである。神の男女が鉄のつえを持って、地球を自分達の所有物として管理しているとき、世界の邪悪な暴君たちは恐れるでしょう。武器を持つ「羊の番犬」はオオカミに驚愕をもたらすが、羊には慰めをもたらす。彼らは神を知り、神の声を認識する人々を保護するのである。


神の子供として、私たちはそれを偶像のように崇拝するのではなく、鉄のつえを支配権を取るように召命されている。私たちは、神から私たちに与えられた王冠と鉄のつえの装着品に感謝しているが、私たちはそれらを崇拝するわけではない。私たちは神を崇拝し、神が私たちに与えてくださった主権と権威に感謝しているのである。









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ROD OF IRON KINGDOM 鉄のつえの王国(2)

第6章 我々のユダヤ・クリスチャン基盤は全ての人のために自由を保護している



16世紀になると、はげ頭の僧は、キリスト教徒は神と直接交流でき、彼らのために(神に)とりなすと教皇は必要としないと主張した。ちょうど殉教者のジョン・フスが100年前に宣言していたように、マーティン・ルターはそれが神の言葉である聖書であり、その切望された中心的地位に値すると宣言した。


私は、聖書の証言や明確な理由によって確信していない限り、(教皇や評議会だけでは信用できないためである。というのも、彼らがしばしば罪を犯したり、彼ら自身矛盾していることが知られているので)、私は聖書に拘束され、私は神の言葉を引用し、私の良心は神の言葉に魅了されている。良心に逆らうことは安全でもなく、また、正しくもないので、私は何も取り消すことができず、また、そうするつもりも無い。


すべての信者の聖職者の地位に対する考えの中のルターの信念は、個人と彼らが住む階層構造との関係の新しいパラダイムを生み出した。ドイツのヴィッテンベルクにあるキャッスル教会の扉に彼の95の論文を釘付けにすることで、マーティン・ルーサーはキリスト教の信仰の基盤を、カトリック教会の中央集権的権威から個人に移した、精神的な潮流を起こした。それは、ジョン・ロックのような政治思想家の世界が、宗教的自由に関する考え方が、米国の起草者に大きな影響を与えたように。


憲法は、ルターの行動によって形成された大きなもので、1世紀以上前に制定されたものである。建国の父は様々な宗教的信条を持っていたが、大多数は国王に支配されたくないという信念を保持していた。


「建国の父たち」が拒絶したのはイギリス国王の権威だけではなく、中央集権的な権力そのものの権威であった。キリスト教徒であろうと、理神論者であろうと、彼らは皆、聖書の文化とその物語を完全に認識していた。例を挙げると、後に米国の第2代大統領となったジョン・アダムスは、1776年に同僚に手紙を書いたが、米国の植民地のように、非常に複雑で強大な機械の管理には、モーセの従順、ヨブの忍耐、ソロモンの知恵、更にダニエルの勇気に加えたものが要求される。建国の父達は、なぜ執行、立法、司法の部門に権力を分割することを主張したのか?彼らは中央集権的な専制政治がどのようなものかを経験し、ヨーロッパでは一般的な王の「神聖な」権利を全く望んでいなかった。


しかし、彼らはまた、全ての男女が堕落の結果として罪深いものとなったという聖書の見方にも精通しており、腐敗に向かいやすい人間の傾向性を防御するためにチェックと均衡を持つアメリカ政府を体系化した。


「建国者たち」は、同じ理由で国家政府の範囲を制限した。連邦政府にはっきりと与えられていないすべての権限は、州や地方自治体に留保された。


建国者たちの中には奴隷を所有していた者もいたが、これはアメリカ史上、最も血まみれの戦争を引き起こした国家的な罪であった。しかし、独立宣言で明確に述べられた原則は、奴隷制の廃止を要求した廃止主義者が主張した内容だった。


それらの内容は、ほぼ2世紀後の、1963年にマーティン・ルーサー・キングがワシントン・モニュメントで話したとき、彼によって引用された。


ある意味では、我々は小切手(約束)を現金化(現実化)するために、私たちの国の首都に来た。私たちの共和国の建築家(建国者)が憲法と独立宣言を、壮大な言葉を書いたとき、彼らはすべてのアメリカ人が相続人を倒すはずだった宣言書に署名していた。このメモは、すべての人間(そう、白人と同じく黒人も)が、生命、自由、幸福の追求する、奪うことができない権利が保証されるという約束だった。



なぜ、アメリカは「誰にもチャンスがある国」なのか。


過去1世紀にわたり、世界中から何百万人もの移民が祖国を離れて、この国にやっ「誰にもチャンスのある国」と考えて。なぜアメリカは繁栄の地域なのか。その憲法による共和国の政治形態は、たとえしばしば「乱雑な」政治であっても、世界中の国々によって模倣されている。


(それでは)なぜ、アメリカの民主主義の外部の形を模倣しようとする多くの国々が、繁栄し、活気に満ちた国にならないのだろうか。


この国の枠組みを整備した者たちは、ユダヤ・キリスト教の価値観に根付いている共有された文化が、共和国政府が仕事を進めて行くのに必要なものであることを知っていた。 ジョン・アダムズはこう書き込んだ。


道徳と宗教に縛られない人間の情熱と闘うことができる力で武装した政府はない。 欲望、野望、復讐、または勇敢さは、クジラが網を通過する際に私たちの憲法の最も強い綱を壊すであろう。私たちの憲法は、道徳的および宗教的な人々のためにのみ設計されています。 他にはまったく不十分だ。


ホリンズ大学のエドワード・リンチ教授が説明したように、憲法に基づく共和国が働くためには、信頼、希望、そして「私には自分の人生と大切な人々の生活を改善する力がある」という3つのことが必要である。


しかし、腐敗は、これらすべてを破壊する。 腐敗を成功させるためには、人間の貪欲、権力の独占、そして匿名性が求められる。 最初の要素を削除することは個人の選択だが、政府は最後の2つに関しては、良いことも、また悪いことも、多くのことを行うことができきる。 リンチは、世界の多くの「民主主義」の中で、貧困と機能不全の持続性は、権力の集中化と関係があると主張している。 独裁政権や寡頭制は腐敗を育む、というのは、匿名性のベールの下で彼らの意思決定を簡単に隠すことができるからだ。


例えば、ペルーの社会学者ヘルナンド・デ・ソトは、ペルーのリマとフロリダ州マイアミで、それぞれの地域で起業するというケースを比較することにした。マイアミでは1日で新しいビジネスのために必要なすべての許可を完了し、提出することができた。リマでは14ヶ月かかりました。3つの必要不可欠な賄賂を支払わなければ、ビジネスを始めることはできなかったであろう。


誰かが新しいビジネスを始める場合、そのリスクを、どの国でより喜んで引き受けることになるかは、簡単にわかることだ。 中央政府は腐敗を促進し、信頼と自発性を破壊する。


地方分権された権力は、より多くの競争を可能にする。 ある地域が堕落しているとすれば、その人は単純に他の場所に自分のビジネスを動かすことができる。ほとんどの決定は地方レベルで行われているので、匿名性は問題にはならない。 誰がそれらの決定を下すかを知る可能性がずっと高い。


アメリカ人は独立性と自発性で知られており、新しい企業、慈善団体、教会、ビジネスを建設しようとする(そして失敗する)ことを可能にする。


マタイによる福音書25章のタラントのたとえは、起業家精神についての物語として見ることができる。旅に出るアマンは召使いを呼び、銀の袋を預けた。最初の二人の召使いは与えられたものを倍増させ、主人から賞賛された。三番目の召使いは預かった銀の袋を土の中に埋め、それを増やそうと努力しなかったとして主人から厳しく裁かれた。


我々は出生の状況をコントロールすることはできないが、我々は、与えられたものに対して責任がある。 マダム・C J ウォーカー(1867-1919)は素晴らしい例である。ヒストリー・チャンネルの説明によると、彼女はヘアケアー製品を成功させたことで、「アメリカで初めて黒人女性の億万長者」として賞賛された。ボム・サラ・ブリードラブは、20歳の時に未亡人となり、クリーニング店の店員として働くことになった。脱毛治療を受けた後、「ウォーカー・システム」を開発し、黒人女性に直接、自家製の製品を販売した。 自己宣伝のための才能が、ブームに沸く企業を築く助けとなった。 ウォーカーはタスキーギ研究所に、女性のための奨学金の資金を提供し、NAACP、黒人のYMCA、その他数十の慈善団体に巨額を寄付した。



進歩主義-失敗したモデルへの回帰


アメリカにおける20世紀の進歩的な政治運動は、第4章で説明したように、アメリカの建国者たちが拒否した中央集権モデルへの回帰である。少数の人々の手に、権力を集中化することにより、人々は、自分達の問題を解決するために、大きな政府に目を向けるように促される。コミュニティの困難に(自ら)対処するよりも、代わりに、人々はワシントンD.C.から配給された資源と利益を求めて競争する。


教育の資金調達と規制は、創設者が連邦政府の役割として思いもよらなかった別の活動であった。教育への政府支出の増加が学生の成果を改善したという証拠はほとんどない。アメリカの進歩主義者たちは、アメリカの公立学校制度を事実上完全に制御しており、その結果は明らかである。アメリカはかつて学術基準で世界をリードしていましたが、現在、学生は読書、数学、科学のスコアで多くの国に大きく遅れをとっている。


最上級の得点を記録した国の中には、30年前と比べてかなり貧しかったことは注目に値する国もある。高校を卒業した生徒は、祖父母よりもアメリカの歴史について知らない。これは、政府が管理する教育がアメリカの若者の多くにとって、あまりうまく機能していないというより多くの証拠である。さらに、建国の父たちは州が基金を創設することや、政府に権威付けられた教会に反対していたが、創造主やユダヤ教・キリスト教の教えへの言及を不毛にされた公共の場や政府を思い描いていなかった。


最上級の得点を獲得した国の一部は、最近30年前にかなり貧しかったことに注目する価値がある。高校を卒業する学生は、祖父母よりもアメリカの歴史についてあまり知らない。アメリカの若者の多くにとってうまく機能していない。



政府の統制から解放される


教会と国家の分離に対するトーマス・ジェファーソンの信念は、公共の場に宗教を関与させるべきではないという信念として、誤って理解されることがよくある。ジェファーソンは伝統的な意味では、キリスト教徒ではなかったが、イエスの教えは「人間の口から落ちた(語られた)、最も崇高な道徳のシステムの輪郭」を構成すると信じていた。彼の同時代の多くと一緒に、彼はいくつかの植民地では、牧師が英国教会によって確立された教義に従って、聖職者が説教することを義務付けられているという事実に反対した。市民は、しばしば日曜日に教会に出席するように法律で義務付けらた。税金は、教会の牧師のための賃金を提供するだけでなく、新しい教会の建設のために制定された。


メリーランド州は、1649年に「寛容法」(三位一体のキリスト教徒に対する宗教的寛容を義務付ける法律)を可決した。これにより、カトリック教徒は信仰を実践できましたが、キリストを信じないユダヤ人や無神論者には死刑を科した。 創造主と 市民に官僚的で懲罰的な命令を課す権利はなかった。


ジェファーソンは、政府が創造主と人々の関係に関与することはできないことを理解していた。 政府には市民に官僚的で懲罰的な命令を課す権利はなかった。


私たちが提出したことのない良心の権利は、提出できなかった。 私たちは、良心に私たちの神に向かう良心に対する回答を持っている。 政府の合法的な権限は、他者に有害な行為のみに及ぶ。しかし、20の神がいる、または神がいないと言うのは、私の隣人にとって何の危害も及ぼさない。 ポケットを拾ったり、足を折ったりしない・・・


ジェファーソンの心の中で最も重要だったことは、あらゆる、全ての政府の統制から解放された、宗教的思想の多様性を可能にする社会の創設だった。


しかし、私たちは、公共の場で自由に表現されている思想の多様性を見るだろうか?政府は、個々の表現を許すのではなく、ますます抑圧的な政権となり、宗教的言論を抑制し、独自の世俗的な国家宗教を促進している。米国のほぼすべての公立学校は聖書が置かれていない地域であり、幼稚園の幼い子供たちはいつでも性別を自由に選ぶことができる。


国家権力の濫用の衝撃的な例は、より厳しい銃に関する法律を要求する、最近の「学生抗議」に見ることができる。2018年3月、米国内の何万人もの公立学校の生徒が、より厳しい銃に関する法律を要求するために屋外でのラリー(決起集会)に集まった。


これは学術的な演習ではなかった。この決起集会は、学校での銃撃での苦悩を、修正第2条の擁護者に対する敵意へと、向け直すことによる学生の感情の大胆な操作だった。


公立学校の青少年たちは、合法的な銃の所有者とその権利を保護するために働く組織である全国ライフル協会に責任を負わせるために、主催者によって指名された。 パークランド校の襲撃を阻止したり、止めようとする政府機関の完全な失敗など、反対の観点からの意見を提供するための努力がなされたのだろうか。そうではない。


あなたが銃論争に関して立っている立場、ここはポイントではない。 問題は、政府が規制し資金を提供している学校が、ある一つの政党の発言のポイントを促進する権利を削るかどうかである。


真実は、アメリカは彼女のユダヤ・キリスト教の価値に強く固執せずに自由を維持することはできない。そして、そこから、私たちの性別、肌の色、国籍、宗教に関係なく、あなたと私は平等であるという確信が生まれる。私たちには、自由意志で私たちを創造した共通の天の父がいるという信念は、他の背景を持つ人々を平等に扱うための最も強力な基盤なのである。建国の父たちはこれを認識し、合衆国市民が自由に選択して礼拝できるように自由を与えながら、宗教的慣行を管理、または操作する国家の力を制限する憲法を創設したのである。


私の父は、国家ではなく、神と強い家庭が平和なコミュニティ、平和な国家、平和な世界の構成要素であると広く教えた。真実は、フリーセックス、被害者意識、責任転嫁、妬みを奨励する「多文化」の教えは、外国の侵略者よりも我が国に対するより大きな脅威である。


アメリカはかつて、十戒が、すべての市民が今日までに生きようとするべき、より高い真理として尊敬される文化であった。(しかし、今)アメリカは、その共有された市民文化が構築された基盤から遠ざかってしまった。私たちの国の統一の目的が破壊されている間、私たちは黙って立ってはいけない。私たちは、私たちの子孫に対して義務を負っている。建国者たちの遺産が彼らに、そして、今後数世代にわたって、受け継がれていくことを確実にするという責任を。






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ROD OF IRON KINGDOM 鉄のつえの王国(1)

Rod of Iron Kingdom の翻訳を試みることにする。


正確でない部分もあるかと思われるが、この本の大意を理解したい。




1章から5章までは、



に翻訳されているので、リンクを貼らせていただく。







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