ROD OF IRON KINGDOM 鉄のつえの王国(3)

第7章 彼(キリスト)は鉄のつえで彼らを支配しなければならない



イエスの福音は王国の福音である


「良い知らせ」は、伝統的にイエス・キリストの十字架、死と復活のみとして説明されてきた。しかし、イエスは良い知らせについて何と言っているか? キリストの言葉をじっくりと見ると、福音は王国の福音であることが分かる。マタイによる福音書の中だけで、キリストは彼の周りに集まる群衆に対し、40回以上にわたって、来るべき王国のメッセージを説いている。


対照的に、彼は弟子たち、内部に対して、個人的に3回だけ、彼の差し迫った十字架のことを話している。


新約聖書の至るところで、イエスの説教は、神が主権を有する統治のメッセージを中心にしている。


この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
(マタイによる福音書 第4章17節)


イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
(マタイによる福音書 第4章23節)


行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。(マタイによる福音書 第10章7節)


そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
(マタイによる福音書 第24章14節)


そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
(マタイによる福音書 第25章34節)


ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
(マルコによる福音書 第1章14節)


マタイによる福音書 第6章33節では、イエスは、私たちが何かをする前に、明日を心配する前に、まず神の王国を求める必要があることを明らかにしている。イエスは「まず始めに、民主主義を求めなさい」とは言わなかったし、「まず、共産主義を求めなさい」とは言わなかった。また、彼は「まず、価値の無い卒業証書を求めなさい」と言わなかった。彼はこう言った。あなたがたは、まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。


マタイによる福音書 第9章35節では、イエスはすべての町や村を回り、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で教え、王国の福音を説き、人々の中のすべての病気を癒した。


ルカによる福音書 第4章43節で、イエスは人々に「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。十字架の福音や死の福音、あるいは、3日目の復活の福音を説くために遣わされたとは語られなかった。それどころか、イエスは神の王国を説く目的で送られたと語ったのである。


イエスはまた、彼の王国が精神的であることと同じくらい肉体的であることも明らかにした。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 第6章9~10節)それは、ただ単に、私たちが死んだ後でのみ、入る天上の王国ではない。キリストの王国は、キリストがこの地上に導かれる正義と善良さの王国になるだろう。



鉄のつえ


私たちは終末の時代に生きているので、王国の約束は今、成就されようとしている。多くの人々が聖霊から啓示と霊感を受けている。イエスは新しい名前を持って来られて(参照:ヨハネの黙示録 第3章12節)、そして、彼は、善良なる人々がキリストと共に、鉄のつえで支配する治世を確立するだろう。


わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう」と。(詩篇 第2篇8~9)


彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
(ヨハネの黙示録 第2章27節)


女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。
(ヨハネの黙示録 第12章5節)


その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
(ヨハネの黙示録 第19章15節)



キリストが再臨する時、彼は統治者となって、そのみ言で国々を審判するだろう。


ヨハネが黙示録を書いたとき、剣は戦争の一般的な武器であった。それは主権者が権力の地位を維持する手段であり、それは彼らの君主制に対するサタン的な支配を確かなものにした。神の王国が地上に来るためには、キリストを中心とする信心深い人々が、悪の勢力よりも強い「火力」を行使できなければならない。(参照:ヨハネの黙示録 第20章)新約聖書の最後の本の聖句には、鉄のつえを重要な着装品として描いており、これは、キリストが再臨したときに、どのように統治するかを示す重要な物理的アイテムである。彼の王国は、鉄のつえの正しい使用によって安全に保たれ、維持される。ヨハネの黙示録第20章では、キリストは「海の砂のようにたくさんの」邪悪な者に対して、火の力(または「火力」)を使い、罰のためにサタンを火の湖に投げ入れた。


しかし、現代の人々にとって、キリストを武器と関連付けることは、しばしば困難である。 2つの存在は相互に排他的に見えるかも知れない。さらに、人々はその致死力のために、必然的に銃器を恐れている。死を引き起こす物に対しては、決まりきった、反射的な反応を引き起こす傾向があり、結果として、一般市民は銃を所有するべきではないという信念をもたらすことが多い。「平和主義者」信者は、神だけが生と死に対する力を支配していると主張するかも知れない。しかし、その主張には疑問がある。目に見えない神はどうやって武器を制御できるのか?それは実生活でどのように機能するのか?


信心深い人々が自分自身を守る力に欠けているとき、悪が暴れ狂うという例を探すのに、あまり遠くを見る必要はない。たとえば、中央政府は過去100年間で2億2千万人以上の非武装の一般市人を殺害し、その多くは神への信仰のために殺された。


正統派キリスト教作家で、ロシアの反体制派のアレクサンドル・ソルジェニーツィンは、ヨセフ・スターリンが創設したグラグ労働収容所の囚人として8年間を費やし、中央政府によって生み出された惨めさを直接経験した人物であった。ソルジェニーツィンは、ロシアの文学の巨人で、共産主義によって引き起こされた6000万人のロシア人の死の主な理由を説明すると、簡単に述べた:「人は神を忘れてしまった。それで、すべてが起こったのだ。」



クリスチャンはより高い権威を認めている


キリスト教徒として、私たちはサタンは国家の力を使い、神の子供たちを支配し、奴隷化し、殺害してきたことを理解している。キリスト教は、特に、キリスト教は個人の価値を高めるので、国家のアイデンティティへの脅威として認識されている。それは人々の間に絆を生み出し、連帯を促進し、困っている人々を助ける。政府は、キリスト教が社会的な反抗勢力が力を得ることができる情報などの伝達経路になることを、当然のことながら恐れている。


イエスの生涯と教訓を研究するとき、聖書は国家の忠誠に相反する教えを示している。イエスは生涯において、政治的な役職を持っていなかったが、それでも、彼はローマ帝国にとって潜在的に危険であると考えられていた。ヘロデ大王は、「救い主」の誕生時に、すべての若い男性の子供たちを虐殺することを命じたとき、「ユダヤ人の王」としてのイエスの立場の正当性を、無意識のうちに確認していたのである。最初の3つの福音書で、キリストは繰り返し、神の差し迫った君主制の支配ついて話した。イエスが神の化身であり、ユダヤ人の王であるという主張は、彼がユダヤ人とローマ人の両方の階層から受けた敵対的な反応の重要な要因であった。


イエスは、イエスのみがユダヤ人たちの忠誠に値する主権者であるという宣言によって、ユダヤ人の支配エリートに衝撃を与え、怒らせた真の革命家であった。イエスに従うことは、ユダヤ人たちがローマの指導者よりも、反逆者のラビに敬意を表さなければならないことを意味した。忠誠心における、このシフトは、ユダヤ人指導者を不安定で、生命を脅かす状況に置いていたことであろう。ローマは氾濫の可能性を迅速かつ断固として対処した。奴隷や反政府勢力に対処する際、国家は通常の慣行として、拷問と磔刑を採用することを躊躇しなかった。大勢の人々を動員することができた、奇跡を起こすカリスマ的なユダヤ人の預言者は、現状に対する脅威として、容易に認識された。



イエスは力の行使を拒絶しなかった


イエスが平和主義者であったと言うことは正確ではない。彼は、神殿にいた貪欲で、自分勝手な両替商を攻撃し、追い払うために鞭を作ったとき、彼は彼自身の力を増加させる武器を製造した。ルカによる福音書 第22章36節で、イエスが弟子たちに言ったとき、軍レベルの防衛兵器の権利を肯定した。


そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。


イエスは、マタイによる福音書第18章6節で、次のように言われたとき、死刑に対する支持を示唆された。


しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 


真実は、イエスが王国の福音でユダヤ人とローマの指導者に脅威を与えたということである。それは彼らの中央政権を転覆するメッセージだったので、彼らはますます怒り、彼のメッセージによって脅かされたのである。


再臨のこの時代に、イエスが戻って来られるとき、私たちはどんな種類の支配者を期待できるのか?一部のクリスチャンは、神の独裁政権に服従する時代に、神の国が到来するかどうか疑問に思っている。一部の人々は、キリストの統治は明らかに圧制的であり、すべての人々を神の絶対的な意志で支配する、王の王が統治する場所であると推測している。おそらく、一部のクリスチャンは、ひそかに、全体主義的な支配の一つであると推測される、神の国ではなく、自由なアメリカに住むほうがよいと個人的に考えている。



自分の命の危険を顧みない羊飼い


しかし、ヨハネの黙示録の「支配」に使われているギリシャ語を調べると、聖書はキリストが戻って来たとき、以前と同じ性格を持つことを示している。第2章で述べたように、ギリシャ語のポイマイノは、黙示録の鉄のつえの聖句にあるキリストの支配を指す言葉である。鉄のつえの支配は、ポイマイノの支配である。ポイマイノとは文字通り、独裁者ではなく羊飼いとして行動することを意味する。羊飼いは世話をして、群れで移動させ、保護して、そして、指導する。良い羊飼いは羊を怖がらせたくない。彼は、害や危険から羊たちを守るために鉄のつえを使うのである。「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」(詩篇 第23篇)


ポイマイノの支配は、正しくて慈悲深い神を中心とした思いやりのある支配である。彼の群れを知っている、王の王である王国の良き羊飼いなのである。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(ヘブル人への手紙 第13章8節)、と聖書にあるように。神は、悪の力が彼らを破壊できないように、神の子供たちが強くなることを願う、守ってくれる父なのである。




邪悪を克服するためには、正義を守ること不屈で、確固たる、善良で道徳的な人々が現れなければならない。鉄のつえだけが、キリストに従う者たちに、暴君に対して「ノー」と言う能力を与える。中央政府、貴族、そして「法の上」のエリートの最高階級によって、人々が苦められ、支配され、何度も「税が形成された」無限のサイクルがあった。


しかし、過去の君主制とは異なり、神の王国は逆さまの王国である。それは根本的に異なっている。神の王国では、かつて、「こころの貧しい人たち」、奴隷、農奴であった人々は、彼と共に共同統治者になるために、キリストの王国の権威と権力を継承する。(参照:マタイによる福音書 第5章)。キリストは全体主義者として支配するつもりはなかったし、彼がトップとして君臨している間、私たちは王国の共同相続人であるべきである。


あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
(ローマ人への手紙 第8章15~17節)


イエスの苦しみと栄光を分かち合うということは、わたしたちが「キリストを着る」人生を過ごすことを意味し(参照:ローマ人への手紙 第13章14節)、堅実さと正義と同様に、愛と慈悲をもって、大きな力を行使できると信頼される人々になるということである。


参上の垂訓では、イエスは単に個々の信者を教えるだけではなく、彼はまた、来るべき王国の継承者の文化についての人間性を教育していたのである。



こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。


悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。


柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。


義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。


あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。


心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。


平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。


義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。


わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。


喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


(マタイによる福音書 第5章3節~12節)


時代を超越した知恵をもって、イエスは主権者であり、武装した人々の王国に、必要とされる特質を教えていた。謙虚さ、思いやり、慈悲、純粋さ、義、これらは王国の美徳である。そして、天の王国は、キリスト教の枠組みの中で鉄のつえを活用する。鉄のつえは、道徳的なキリストを熱望する市民によって、王国を適切に維持するためにのみ、使用することができる。チャールズ・キャロルのような創設者の父は,この点を理解していた。


道徳がなければ、共和国はいくばくも存続することはできない。それゆえ、キリスト教という、その道徳性が非常に崇高で純粋な、宗教を公然と非難している人々は、自由な政府の最高の安全保障である、道徳の強固な基盤を蝕んでいるのでる。


キリストの主権を分かち合う神の王国の市民は、自分自身の鉄のつえで自分達の家族、隣人、そして、国家を守る責任を負う。


鉄のつえを持っている人々は、かれらが個人的レベルと国家レベルの両方で、これらの王国の価値を体現できるように、身体的トレーニングと同じように、精神的トレーニングとを受けるように召集される。それは、道徳的な共和国が維持され得るには、この方法しかないからである。武装した防御者として繁栄する私たちの能力は、唯一の福音の完全な体現者である、キリストに本質的に依存した、継続する訓練と学習に左右される。


鉄のつえは、王国の市民が力を通して平和を維持することを可能にする。キリストの共同相続人は、自制心と「怒りをおそくする」ことを通じて、強さを維持しながら、王国を保護する者になる。武器を所有する人は、高いレベルの規律と警戒を維持しなければならない。市民が鉄のつえを所有する時、とてつもない力を持つことになるので、自分自身を主管する方法を学ぶことが不可欠となる。一度、弾丸が発射されると、絶対に元には戻らない。


責任のあるすべての親は、自分たち自身の命の危険を冒してでも、自分達の子供を保護するという本能を持っている。神の王国は、私たちが隣人の「守護者」であるという文化を表すのである。鉄のつえは、より身長の低い人、年齢の高い人、あるいは、障害を持つ人にとって、自分たちの威厳のある主権を維持するための最も効果的な方法である。鉄のつえの文化の基本原則は、神を愛すること、そして、隣人を愛することである。


武装した市民は、悪人、暴君、サタンの勢力によって駆り立てられた人々に「NO!」と言う能力を持っている。武装した市民だけが「NO!私を支配したり、殺したり、コントロールしたり、奴隷にしたり、レイプしたり、私や私の隣人に悪を仕掛けたりすることはできない。あなたが私に破壊的な力を行使しようとするなら、私は、私の愛する人々、または私の王国を守るために、致命的な力でもって対応するだろう。」


神の家族の一部として、そしてキリストの主権を分かち合いながら、神の王国の市民は、誇りをもって王冠を身に着けている。私たちの忠誠はキリストの神に対するものであり、国家の神に対するものではない。それで、イエスはこう言われたのである。「あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。」(ヨハネの黙示録 第3章11節)


私たちの王冠をかぶることで、私たちはすべての神を否定する暴君に反対し、神の王国の市民として立ちあがる。


18世紀のアメリカの反逆者の精神には、入植者たちがただ一人の君主に仕えたという感情が吹き込まれていた。英国に任命された知事が述べていたように。


もし、アメリカ人に、あなたの主人は誰ですか、と聞けば、彼は、誰でもない、いかなる知事でもない、ただイエス・キリストのみである、と答えるであろう。


同様に、英国のピトケアン少佐がミニッツマンの集められた連隊に叫んだとき:「解散しなさい。お前ら、悪党どもよ。英国のジョージ王の名において、武器を下ろせ」それに対して、ジョナス・クラーク牧師は答えた。


私たちは神以外の主権を、イエス以外の王を認めない!


アメリカが、その神聖なルーツから逸脱していることは深刻であるが、神はこの特別な国を手放してはいない。アメリカ革命は、アメリカ人がまだ武器を所有する権利を持つという、高貴な価値観を中心にしているからである。私たちが何かを使う場合、その目的は、神か、あるいはサタンが権力を持っているかどうかによって決まる。武器は力であり、または力を増幅させるものである。脅威として、容易に認識された。私たちが、圧制からの解放や自由の保護等のように、儀にかなった目的のために銃を使うならば、神がその銃に対する権威を有するのである。


キリストが、詩篇第2篇8にあるように、私たちに地の果てまでも所有を与える理由は、私たちが利己主義者になれるようにではなく、私たちがキリストに代わって、管理責任を遂行できるようにするためである。神の男女が鉄のつえを持って、地球を自分達の所有物として管理しているとき、世界の邪悪な暴君たちは恐れるでしょう。武器を持つ「羊の番犬」はオオカミに驚愕をもたらすが、羊には慰めをもたらす。彼らは神を知り、神の声を認識する人々を保護するのである。


神の子供として、私たちはそれを偶像のように崇拝するのではなく、鉄のつえを支配権を取るように召命されている。私たちは、神から私たちに与えられた王冠と鉄のつえの装着品に感謝しているが、私たちはそれらを崇拝するわけではない。私たちは神を崇拝し、神が私たちに与えてくださった主権と権威に感謝しているのである。









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